『漫画 君たちはどう生きるか』を読んみてどう生きるか考えた

この物語の最後に、原作者の吉野源三郎氏は読者にこう問いかけてきます。

君たちは、どう生きるか。

この物語は、主人公であるコペル君が、日常の出来事について考えたり悩んだりする様子が描かれる漫画部分と、悩むコペル君に、大人の観点から的確な意見やアドバイスを提示する、おじさんのノート部分が対となって、ものの見方・貧しさや豊かさ・人間の偉大さ・人間の悩みや過ちといったテーマ(以降、悩みとして考えます)について考察されています。

2人のやりとりを読みながら、

「こんな時、自分ならどうするだろう?」

というように、自身のことに置き換えながら読んでもらいたい……原作者である吉野源三郎氏の思いが、この最後の一文に託されいるように思います。

一方、物語の冒頭において、(おそらくは)漫画の書き手である羽賀翔一氏は、こう問いかけます。

あなたの中にいるコペル君おじさんはどんな言葉を投げかけてくるのでしょうかーー

コペル君おじさんが、読者自身の中に存在するという前提です。なぜ羽賀翔一氏はそのように考えたのでしょうか? 僕はこの一文に違和感のようなものを覚えました。

人間が生きている限り、様々な悩みに直面します。人生は悩みの連続です。しかし多くの人々の日々は、社会人なら仕事・お付き合い・家事・育児、学生なら学校・塾・部活……そういった日常の生業・雑事に追われています。悩みに正面から向き合うだけの時間的余裕を持つ人は、そういないように思われます。

悩みと言えば、基本的には一人で悶々と抱え込むものだと思っています。たまに親しい間柄(友人・両親・先生など)に打ち明けて、重荷を分かち合ったり、背中を押してもらうことがあるとしても、普通は一人の中で自問自答を繰り返すものでしょう。

本の中でこそ、悩みを抱えるコペル君と、それに答えるおじさんはそれぞれに存在しますが、普通は、自身の中に二人とも存在するものだと思うのです。自問(コペル君の役)し、自答(おじさんの役)するわけです。

体験上、自問自答は堂々巡りを繰り返します。悩めば悩むほど、非生産的とも思われる膨大な時間が費やされます。先に述べたように、私たちには悩むことに費やせる時間の余裕はないのですから、その貴重な時間をむしばむ悩みは、病気や害悪のようであり、一刻も早く取り除く必要がある邪魔者として取り扱われます。

インターネットが広く利用されるようになった早い時期から、ネット上で簡単に悩み相談にアクセスし、悩みを解消できるサービスが提供されてきました。例えばQ&Aであったり、最近ではSNSもそういった役割を果たしているのかもしれません。そういったサービスを利用すれば、善意(?)の第三者が素早く答えを返してくれます。もはや自ら悩みを投げかける必要すらないかもしれません。誰かが同じような悩み相談をすでにどこかでしているので検索したほうが早いですし、うかうか同じような質問をしようものなら、叱られてしまうこともあります。

悩みにまつわるセミナーなども頻繁に開催されているようです。参加者の口からはよく聞かれるのは、

「大変貴重な気付きが得られました!」

という言葉。まさに目からウロコが落ちた心境で、これまでの悩みが嘘のように解消した瞬間だったのでしょう。

多くの悩みはネットやセミナーなどでカジュアルに解消できるようになり、悩みに費やされるずいぶん時間は減りました。顔も見たことがない大勢の誰かや、セミナー講師が相談に乗ってくれる相手役を買って出てくれます。しかしながら、便利になったと感じる反面、時間や便利さを理由に、悩み方を忘れてしまった自分に気付かされます。

ここに羽賀翔一氏のメッセージがあったのではないかと考えています。

あなたの中にいるコペル君おじさんはどんな言葉を投げかけてくるのでしょうかー

自身の中にコペル君はいますか? 自身で悩み、自問することができますか?

自身の中やおじさんはいますか? 自身を俯瞰で眺め、自答することができますか?

羽賀翔一氏の問いかけを、そう読み解くことも可能なんじゃないかと考えました。

僕ですか? 僕の中にはもはやコペル君おじさんはいないということに気付かされました。いつの間にか、彼らは僕のもとを去ってしまったいたのです。

悩んだらネットで検索。理想はなるべく低く保ち、現実との折り合いをつけて上手に生きていく……コペル君おじさんがノートを通じて語り合う姿を、憧れやノスタルジーに近い気持ちで読みました。もはや再び二人には会えないんじゃないかという、どこか懐かしく、そして悲しい気持ちがないまぜになった読後でした。